人間という文字が示すように、私たちは、人の間にありて「私」を形成しているところがあります。
ですから、人間関係を語る時、その個々の要素である「私」を知る必要がありますし、「私」を知るためにも、「私」を取り巻く人間関係を把握する必要があります。
対人関係と、パーソナリティの関係
私たちにおけるパーソナリティ(人格、個性)を語るとき、切っても切り離せないのがまた対人関係でもあります。何故ならば、パーソナリティとはその人の持つ物事の受け止め方であり、主にそれは人間関係に現れるといった性格を持っているからです。よって、この章では、それらを一組として心の在り方を見てゆきたいと思います。
さて、人格といってもそれは物質的なものとは違います。この空気のような存在を確かめるためには、何らかのイメージと言葉が必要となります。
それをわかりやすく、指標とする5つの柱として名前をつけたのがバーンとデュセイという人たちでした。バーンの研究を基礎に、デュセイが考案した心理検査の中に、「エゴグラム」というものがあります。その中で使われている、5つの柱をまずは見てみましょう。
柱には、それぞれに長所と短所があります。
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CP(父性的・性) | (長)ルールを守るなど | (短)融通がきかない |
| NP(母性的・性) | (長)面倒見がいいなど | (短)おせっかい |
| A (コンピュータ的・性) | (長)情報処理が適格 | (短)人間味がない |
| FC(自由な子供的・性) | (長)のびのびしている | (短)わがまま |
| AC(従順な子供的・性) | (長)聞き分けがよい | (短)自分が出せない |
※ 一例です。
これらにおける特徴の度合いをかけ算した全体が、私たちの個性を形作っている何かであるというイメージをまずは心に描いてみましょう。
さて、この中から最も大きい、或いは最も小さい傾向を示すものが出てくるかと思います。それらは私たちの選ぶ生き方の傾向や特徴のひとつであると捉えてゆきます。このように、エゴグラムは私たちを知るための道具となります。
もし、これを読まれているあなたが、「新しい自分になりたい。」と思っていらっしゃるならば、いま現在における自分の特徴をまずは知ってみることもまた大切なことです。
何故ならば、いま現在の個性の中にも新しい自分への地図がたくさんたくさん隠れているからです。私たちが気づけないだけで。
「思い込み」の多い私たちと、「すれ違い」の現象から
私たちは、私たちが自覚している以上に、「思い込み」と共に生きています。即ち、自分自身を捉えることにもあてはまる事象であります。
そうなってくると、自分とは違う誰か(他者)を捉えるをいうことでさえ同様となります。何故ならば、私たちは「自分をひとつの基準として他者のイメージを心に抽出する」からです。他者像もまた、自分あってのものなのです。
さて、自分自身を捉えるということを行う時、無意識にもいくつかの手段を使いますが中には次のような「鏡映自己」と呼ばれるものがあります。
鏡映自己
鏡を使って自分の姿を見るように、内面の像さえも「何らかの媒介物を通さなければ捉えられない」という原理がある。この媒介物には「他者との関係性」などが入り、派生して他者の目に映る自分の姿についての想像・他者からの評価についての想像・関わりを持つ人から受けるものへの認識までを意味とする。
この原理を手がかりとして浮き上がった感覚やイメージに意味を与え、自己像への認識を最終的に行うのは自分の内面となる。
よって自己認識という働きそのものは、媒介物に過ぎない他者・他者との関わりにおける事実より自分による想像の域が大きいとする捉え方。
「自分における認識」と「他者からの認識」とのギャップの存在を、自然に示唆する概念。
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この概念からも、自分自身や自分の見ている世界を把握しようとすることにはまず、何といっても「こうであるかもしれない…」という仮定から始まりその延長に概ね私たちがあり続けることが理解されます。自分を捉えるということは思いの他、容易なプロセス(過程)では展開しません。
しかしながら、現実問題としてはこれらをほどほどの理解として生きていかねばならないという一側面もあります。ほどほどにわかったこととして歩めなければ(逆に、細かなことにこだわり続けていては)、生活はまわりません。
よって、仮定をひとつの答えとして日々をこなしてゆくわけです。私たちのそれぞれにおける「思い込み」をあたかも答えであるようにして生きる「今ここ」のあり方、これはこれで便利なのです。
それでも、仮定を答えとして描き続けるのみではやはり無理も出ます。時に、私たちの視点が「思い込み」でもあるという面に目を向ける必要性にも出会います。
「鏡映自己」の仕組みからすれば、ひとつの現実感であり思い込みでもある、私たちにおける世界との関わり方というものは人の数だけ存在していることがそこそこお分かりのことでしょう。
また、これら現実感と現実感との関わり合いが対人関係であるというならば、同時にそれは「思い込み」と「思い込み」との関わり合いであるとも言えるのかもしれません。ですから、すれ違いというものが起こることもまたとても自然なことであるわけです。そして、生きることにおける問題はすれ違いを極力少なくすることとすれ違ってしまった時に、どう捉えるか?どう動くかであると思います。
テレビドラマを思い出してみてください。どんでん返しや不条理はあるにせよ、最終的には「これこれこういう物語だった。」とあらすじを一貫して描ける程度には見られます。この統合感は、ハッピーエンドにせよ不条理を交えた内容であれど、ある種の安心感を齎します。
しかしながら、もしそこに全く別のテレビドラマに出てくる登場人物を組み込ませるとしたならば…、どうなるでしょう?!多かれ少なかれ、何らかの違和感を覚えることになるのではないでしょうか。
あるドラマでは一生懸命に語る姿が滑稽なものとして描かれて面白みを与えているが、別なドラマの中ではその姿こそ涙を誘う。
それ程テンポの違うドラマたちそれぞれの交差が、言い換えれば私たちの人間関係なのです。
そうして、時にそれぞれのテレビドラマ(私たちの人生・価値観)にも変化の時期がやってきます。仮に、新しい物語を描くことの必要性が迫られた時期≠ニでも、命名してみましょう。
ひとつのドラマ即ち私たち個人個人にあたるものが、先ほど話してきたひとつの「思い込み」とも眺めてみます。この「思い込み」そのものは余分な情報にふりまわされる危険を回避してくれますし、一種の処世術として成り立っています。ひとつの形作られた台本として、ある程度の安定性を司っていると考えてみてください。
しかしながら、他のドラマとの接点が出来て崩れる安定性というものがあります。接点をきっかけに台本の個々における個性の安定性が揺らいでいく。これが、すれ違いの原理であって、安定性を欠けば当然不安も生じます。
真実としてまだ維持できる側面とそれに至りきれない側面とが両立し、変化を余儀なくされると共に追いつかない心を味わいます。この時期は、本当に大変なものです。
けれども、この期間における過ごしかたと台本の描き方次第では、新しい要素を取り入れた更に面白みのある充実したドラマの生み出される可能性は小さくありません。
もはや私たちの仕事は新しい物語を自分に馴染ませていくことにあるのですが、それにはそこそこの思慮と相応の時間が必要でるのです(^^ * )この自然な思慮の時間において見るもの感じるもの、表現の衝動にかられることは、毎日吸っている空気と同じくらいにとても大切なものです。
この時期におけるもやもや(模索)こそ、投げ出しきらず抱え込みすぎずいろいろとしっかり扱ってゆきたいものです。
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