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例えて言うならば…→ ぽちっとな♪
受ける側に何をするの?…→ ぽちっとな♪
しかしながら、
具体的には、下記となります(^_^)/
辞書を引いて得る回答を参考に申し上げるならば、カウンセリングとは、「クライエントが、自分自身を助けるための視点や、心の持ち方の育成を目指した、カウンセラーと共に歩む自発的な道のり」となります。
ここで強調されるのは、何よりも、クライエントを中心とした歩みがカウンセリングであり、カウンセラーが、押し付けがましくクライエントを救おうとするものではない点です。
そうした方向性の意識される中で、カウンセラーからは、「気づき」を促すための援助がたいへん慎重に行われてゆきます。それらは言葉や対人姿勢を使ったものであり、主に、「対話」という形式をとります。
ところで、「何故、そんな面倒くさいことをわざわざ行っていく必要があるのか?そんな小さなことが、大きな問題解決を導くものか?」
といった疑問を持たれるかたも、少なくは無いかもしれませんね。
また、こうした疑問を抱かれるのは、時に、「自分なりに、悩みごとにもんもんとしたことはあったのだけど、何となく途中で投げ出してしまったのだ」という経験をお持ちのかたでもあるかもしれません。
おそらくは皆さん、どうしても日常の目で、カウンセリング場面を想像してしまうという現象について、おっしゃってくださっているのではないかと、私は感じています。
カウンセリングというのは実際、それとは違う空間に位置しています。
と言ってもそこは、魔法も媚薬も無い、とってもとってもシンプルな空間です。
強いて言えば、鏡が置いてあります。
無用なおべっかは言わない、自分自身を映し出す鏡です。
おべっかは言わなくとも、クライエントを温かく見守り、未だ気づかれぬクライエントの真実の姿から、真なる助けを導かんと腹を据えている鏡です。
即ち、この鏡とは、カウンセラーのことです。
鏡の役割は、たいへんに重要です。と申しますのも、意外にも人間という存在は、自分自身のありのままを知る手段を持っていないからなのです。
そのことの延長で、「ありのままの自分が、駄目だからいけない・・・」と解釈しがちな人間は、いくつかの思い込みを自身の内に育て、それに依って生きてゆきます。
それについては間違った処世術とも言えないのですが、まるで生き物のように不変のものではない人生です。依ってきたその思い込みこそが、いつの間にやら、自分を害すモンスターになってしまう展開もまた、しばしばあり得るのが人生なのです。
一方で、そうした事実の実際は、なかなか容易には見えません。一人でもんもんとするだけの姿勢ですと、まずは、何も見えてこないことでしょう。
それこそ、モンスターの尻尾が見えて、「キャッ!」と思うや否や(或は、強がりだけをさんざん吐いておきながら)、引き返してくるというのが、よくある展開であるかもしれません。
或は、目撃者がいないのを良いことに、モンスターからの賄賂をまるまる受け取ってしまって、青白い顔をして一人、ほくそ笑んでしまう姿もあちらこちらに在るようです。
鏡に映し出して、よく目を凝らす。
心や、生き方に対する姿勢なども、慎重なひと工夫を加えて取り組まない限り、そのありさまは的確には見えず、そうしているうちに、モンスターに食べられてしまうか、幽閉されてしまう日常が回り出してしまうのです。
ですから、時として、「自分のことに気がついているようで、まるで気がついていないのだ」と捉える領域から、生き方を見つめ直してみる必要があるのです。
そういう位置から、慎重に自分を見つめ直し、自分にとって、本当に必要なものと無用なものとを、或はその度合いについて、適切に見分け、無限ではない自分のキャパシティ(容量)の中で、扱えるもの(と、扱わないもの)を判断する目と腕を磨きます。
例えば、赤ん坊から幼児に移ってゆく際、「泣くな!」と言われて育つ私たちがいます。その教えを忠実に守って涙を枯らす人は多いものですが、実際には、涙することや嘆くことの必要な経過というのが、人間にはあるわけです。
無用だと思っていたものがとても必要であり、必要だと思っていたものが余分なものであった。そんなことは、人間の人生において、日常茶飯事です。
ですから、悩みの解決には、当たり前だと思って来たものを、敢えて確認する眼差しや、それについて修正を加えていく柔軟な姿勢が、とてもとても大切になってゆくのです。
カウンセリングでは、直下の問題解決に取り組む姿勢に始まり、人生に対する姿勢から見直し、必要に応じて揺さぶりをかけてゆきます。
その目的とはもちろん、クライエントの、自我の未熟さをカウンセラーが見下ろすことにあらず、クライエントが、自分の人生に温かい意味を見出すことにあります。
「良き変遷を迎える直前の人間」には、自分の未熟さに対して、充分に出くわす必要があるものです。
価値のある危うさ、というものがあります。
日常における、わずか一面の常識が、それを完全に壊してしまわないよう、
未熟さも含め、存分に感情表現出来る場を与えるのが、カウンセラーの役目でもあります。
私たち人間は、同じ一瞬が、どこにも存在しない時間軸を辿ります。
ただちょっと便利なので、私たち人間の方が、状況をパターン化して眺めているのです。
でも、便利でなくなってきたら、そのパターンに留まらない勇気も必要です。
必要に迫られたのならば、方向修正はしてみなくっちゃ!
そうは思いませんか? (^_^)
変わらずにして、移っていく。
クライエントの中の、そうしたものを支えるのがカウンセリングです。
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まとまらなさと、カウンセリング
せっかくですので、余力のあるかたは何かしらの、"気持ちがまとまらない経験"を思い出してみてください。
そのイメージを通して、悩みの動作や、カウンセリングをシュミレーションしてみましょう。
どうぞその想起と共に、下記の文章における展開を辿ってみてください。
それでは、始めてゆきたいと思います。
言葉(形)にしたい思いがあるのだけれど、どうもそれがまとまらない。そこがまとまらないために、次の行動を選ぶことが出来ずに困っている。
これは、多かれ少なかれ、誰にでもあることです。それ程、深刻でなければ、脱線しながらも道を見つけ出していきます。
しかしながら、次のようなことにも、注目してみましょう。
何を選んでも、どうも同じような問題を繰り返している。振り返ると、ああ、まただ。≠ニいう気持ちになる。或いは、相談したいことは何となく解っているのに、言葉にしようとすると、どうもしっくりこない。(しっくりこないために伝達の手段も乏しく、周囲にも、何となくしっくりこない伝わり方をしてしまう。そのことにより誤解を受けてしまい、落胆に至る展開もしばしばである。)
こうした状況に身を置く私たちは、時に、「解決策に、満足出来ない自分が悪い!」と、評価することに急いでしまいがちです。
しかしながら、その解決策を欲している自分と、解決策との間に、何らかの支障が発生していることを示唆する出来事にあたるのではないかと、慎重に、考えてゆく必要があるとも言えるのではないでしょうか。
自分が望んでいるもの(欲求)とは、どういった流れやものを指しているのか?
自分は、どのような解決を図ってゆきたいのか?私たちの内に沸き起こる、これらの問いかけは重要です。
人から聞いた解決策をただ適用することとは違い、この問いかけへの向き合い方には、自分らしさへの接点が含まれているためです。言い換えれば、この接点こそ不鮮明であるというのが、より具体的な問題解決への道のりを妨げている、最もな要因でもあります。
解っているようで、実は、気がついていない。いえいえ、解っているつもりになるからこそ、自分の解かっていなさに気がつきにくくなっている。具体的な自己認識へのズレや、あべこべ(自己不一致)こそが、心の置き所の定まらなさイコール、不安感情の増幅器に位置していることを、私たちは学ばなければなりません。
それらは、「ただ与えられる、無条件で飲み込んでしまう解決策の良し悪し」以前に、作用する必要があります。
何といっても、解決策を扱ってゆくのは、他ならぬ私たち自身であるのです。その自覚(自己一致)こそ、私たちが人生を歩む際の操縦かんなのです。
自分が「食べたい」と思っているのかどうかもはっきりとは解っていないのに、食べないと良くないからと決め付けられて、一方的に食べ物を与えられ詰め込まれても、一向に、心の胃袋は元気にならないことでしょう。
自分がどうしたいのか?自分が何を欲しているのか?
カウンセリングでは、こうした問いを大切に吟味してゆきます。
カウンセリングとは、自分らしさの接点を欠いて、答えの獲得に急ぐ"人生相談"とは違います。
迷いを抱える私たちの心こそ肝心ですから、まずは、自分の気持ちを見つけることに力を注ぐのです。
それが伴えば、答えを与えられずとも、自ずと答えが見えてくることでしょう。
よろしければ、あなた様も、
カウンセリングを通して、あなたの心に語りかけていってみませんか?
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カウンセリングの展開(イメージ)
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