私の経験について(心の風邪をひいたこと)
この職業に就くよりずっと前、私は「心の風邪」をひいたことがありました。鬱病まではいかなかったのですが、「鬱的傾向」というものになりました。時間が経ち、また良心的なカウンセラーに出会えたことなどもありながら、むしろ今では、その頃のことを前向きに見られるようになりました。※現在は、「もう、大丈夫ですね。」「あなたの中には、ちゃんと自分を回復させていく何か≠ェ生きていますね。」といった言葉を担当医師や、面接でお世話になったカウンセラーにいただいた上で現在に至り、この仕事をさせていただいております(*^^*)自己判断のみの回復で、カウンセリングのお仕事に携わってはおりません。
先日、河合隼雄先生が、「鬱になり、乗り越えた人は、皆、なってよかったとおっしゃる。」とにこにこしながらおっしゃっている姿をテレビで拝見しました。この言葉に、私は大きく頷けます。その、自分自身に頷いたものをここに記します。
しかしながら、これは澄美という人間における、澄美という人間ならではのことです。もし、これを読んで、こうならなければと気持ちが急いでしまいそうになることがありましたら、どうかお願いです。「自分自身」の答えを形づけることをそんなに急がないでください。少なくとも、この文章の全体性を見つけるためには何年もかけているのですから。どうか、あなたが見つけたいことにも、あなたなりの年月をかけてあげてくださいm(__)mそう思います。
最近、ヒーラー(癒し手)になることが流行っているというネタをラジオで聞きました。そういえば、癒しの施設も増えたなあ。そんなことを漠然と感じています(^_^)後から癒さなければいけない場所ばかりが増えるという時代というのも、どうなのだろうと思いますが、疲れという感覚を無視しない方向に動き始めたということなのかもしれませんね。
丁度、私が自分自身の生き方を見失いかけた頃と比べると、微妙ながら変化を感じます。当時、自分の気持ちに反した動き方ばかりしていた私がありました。そこそこ適当にもなれる自分ではあったものの、残業22時頃まで当たり前(というより、もっとしていました)、時には徹夜もするといった周囲を見ると、自分だけが弱音を吐けないという思いが濃くなっていきました。
一般的に、会社といえば、残業は当たり前の時代です。私は、公務員でしたが、これも同様に含めます。このように、仕事の量や環境にも充分に問題はあるとは思います。
同時に、ストレス過多になった原因は、知らず知らずのうちに『頑張ること』と、『自分自身の気持ちを自分が無視するということ』を同じこととして捉えたこと、つまり自分を蔑ろに扱ったことにあったと、今は思います。
人は、誰しも自分を始まりに、世界を捉えます。そんな基準になる自分を無視したら状況把握にも無理が出てくるのは必然のことです。状況把握、自分の思いと経験のズレが大きくなれば、自ずと負荷も増えます。人生経験の少なかった私は、何よりも、このニュアンスが解らなかったのです。その時点における自分の限界が、解らなかった。
私が初めて「疲れた。」と具体的に表現したのは、腰痛でした。心は無視出来ても、負荷が限度を超えれば、体は痛みを訴えます。
ところが、整体院では、どこへ行っても症状が酷いと診断を受けても、整形外科での検査では綺麗な骨の並びで問題ないと意見が分かれました。休息をとっていいものなのか、頑張るべきなのか。。。漠然としていて明確な診断名もないのに疲労した自分を認めることは、ただ怠けたいだけなのではないか?
このように、何よりも漠然としているものに対する不安と、それでも確かにある疲労感を持った自分との闘いでした。
そんな思いを持ちながら、思い切って心療内科の戸を叩いたわけです。何で、うちなんかに来たんですか?怠け癖です。と言われたら、その時はその時!でも……。
「とても疲れていますね。。。」漠然とした感覚を漠然としたまま受け取って貰いました。そこで初めて気がついたのですが、私は程よく根をあげることが苦手になるくらい、自分の気持ちを二者択一的に見ていたのです。これが、私の欠けたと感じるところのひとつです。私自身の一部です。
ある意味で頑張りぬいて、ようやくそのことにも気がついて、「嫌なことは嫌。」「無理なことは無理。」「自分にだって、キャパはある。」と、本当の意味で主張出来たとき(これは、やるべきことをやらないということではありません。)、状況に変化が現れたような気がします。特別な賞賛が、欲しいわけではない。でも、一寸の虫にも五分の魂。
最後には、「私は、上の人間ばかりが大変だと思っていました。でも、下だって大変だったんですね。(ようやくわかりました。)あなたの気持ち、私にもわかるような気がしました。そのことに気がつけなくて、申し訳なかった…。」という言葉を貰えたことと、仕事に出られなくなったことで辞めさせられるのではなく、自分で辞めることを選べたことで、幾分救われました。でも、もっとうまくギブアップが表現出来たら、こんな言葉を言わせなくても済んだのかな…。そんなふうにも振り返りつつ。100%よかったと誰しもが思える結果を導けるということもこの世には無いような気もしつつ、このちくりとするものは、仕方が無いから、これから(未来)に生かしていくっきゃないなあ…。そんな思いだけは、怒りも悲しみも風化しつつある今、私には残っています。
人間は、完璧な人などいません。どこか欠けたところは、誰にでもあるのです。欠けたと感じるところはあっていいのです。そして、何かを漠然と感じるものというのも、そのままで充分な感覚のひとつです。(プロセスを大切にする。)
でも、欠けていると感じる度合いに気づかないというのは、必要以上に生きることを困難にします。それでは、そんな自分を駄目に扱い、『改善』すればいいのか?……いいえ、私は、そうは思いません。
欠けたところは、秀でたところでもあります。その人の、大切な個性のひとつです(^_^)何も、無理矢理無くさなくてもいい。
どうしたらいいのか?それは、言えません。何故ならば、私が舵を取れるのは私の船でしかないからです。私以外の人の船の舵を取るわけにはいきません。強いてひとつ伝えられると感じることは、解らないと自分自身に思えること、とても大切だと思います。それは、自分の奥深くからの言葉を聴くための始まりだからです。そのとき、そのときにおける自分の感情≠大切にしてあげてください。
自分が、自分を助けることに遠慮しないでください。そんな受容と共感をここに。
*後書き*
優しさと厳しさを心に置くことを心しながら、自身のことを書かせていただきました。これは、ほんの一部です。書ききれない思いや、経験がありました。良いことも悪いこともありましたが、今では、ひとつひとつの中に良いも悪いもあったと捉えています。ひょっとしたら、言葉に出来ない何かの方が、ずっとずっと意味があったのかもしれませんし。ただ、無駄なことなんてひとつも無かったなあ。。。それだけは、思います。そして、そのことがあったから今があるのだと。
今は、ずっとずっと自分における幸せというものを感じられるようになりました。一喜一憂ありながら(^o^)
さて、自分の話は、この場所では、これだけにしておこうと思います。ここは、クライエントさんもいらっしゃる、いらっしゃっていただいている場所です。あまり、私の話ばかりになると、そこにこだわらせてしまうこともあるかもしれないので。あなたの人生は、あなたのための人生です。
心のずっと奥にいる、一番・・・
あなたに近いあなた。たまにお話してみませんか。
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