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 ゲシュタルト療法
(ゲシュタルトという言葉自体は、「全体」や「統合」、「まとまりのある構造」を意味します。)
人は、体のことに限らず心においても、空腹感と満腹感をサイクルとして回転させながら、生きています。(※サイクル=周期、循環過程)
例えば、授業を受けているときに、お腹が空き始め、どうにもそちらが気になって、先生の話や、友達の何気ない仕草、外から聞こえる音も、ほとんど覚えていないなんて経験はありませんか? これは、お腹が満たされていないという感覚が、ひとつの満たしておきたいテーマ≠ニして、鮮明になっていく状態にあるからこそ、起こってくるわけです。 このようなテーマも、お昼に突入して食事が出来た時点で、自然に消滅をしていくことでしょう。
このくだり、何だか、とてつもなく普通(日常)なことについて、何を回りくどく書いているのだ?と問われるような内容でもあるかもしれませんが、こういった点に注目していくことが、時には、とても重要なことになるのです。
人がよりよく生きるためには、満たされない思いとしてのテーマを抱き、更にそれを満たそうという方向へ動き実現に至るということが、とても大切になってきます。体を生かすために必要な食料を摂取する≠ニいう行動を発生させる源は、この欲するというモチベーションが要(かなめ)ともなっているのですから。
このテーマにあたるもの、即ち、空腹を感じて欲するという内なる要請によって自然に着眼されていくもの(例えば、お腹を満たすものを食べたいなど。)をゲシュタルト療法においては「図」といいます。特に支障が無ければ、真っ直ぐに意識されていく領域です。そして、「図」に気持ちが注目していくことによって逆に意識から遠のいていく、テーマに関連しないその他諸々を「地」といいます。その時に欲しているものの見つめる先が具体化していく半面、「無意識」・奥・裏側・背景においやられていくものがそれになります。
さて、この後は、どうなっていくのか?
スムーズにテーマが満たされれば、それと同時に、「図」は不鮮明になっていき、背景の方向、つまりは「地」へと戻ってゆきます。これは相互作用的な動きでもあるため、同時に「地」が、再び鮮明になってゆくということを意味しています。そしてまた、「地」という背景にあったものの中から、新しくテーマとなるものが鮮明になってくることもあります。お腹がいっぱいになったら、ほっとして眠たくなってしまったという場合には、「眠りたい」という思いを中心とした「図」が新たに起こりつつあるのだと受け取っていただけるとよろしいかと思います(*^_^*)
このような、「図」と「地」における入れ代わりを内面的にも繰り返しながら、私たちは生きているわけです(*^_^*)また、この展開がスムーズに行われるということは、私たちの(心と体における)健康を意味するとも言えるでしょう。
ところが、そのことに対しての障害となるものもまた、たくさんあります。私たちが生きる場所には社会≠ニいう、様々な心の集まる世界があり、それに基づいたルール(規則)も、たくさんたくさん存在しています。 その中で生きるためには、社会という集団の枠に沿うといった生き方をある程度は、身につけなければなりません。よって、私たちは、どちらかといえば、本能や欲求を抑えた上での処世術を教わりながら育ちます。 こういったありかたをひとつの生き方という習慣として、体に刷り込んでいきます。
この習慣における影響から、柔軟性を欠くに値する、絶対的なものとしての処世術が心に刷り込まれてしまうことがあります。社会側からの要請を優先する癖を強化し過ぎた結果、その人にとっての「図」の消化が後回しにされるといった流れが生じていきます。
また、こういった状況に陥られたご本人の多くは、この後回しの作業にこそ、生きている証・意義を見出し過ぎてしまったかたであるともいえるかもしれません。よって、ますます未消化なままの「図」が残されてゆきます。
それは、例えば、こんなことでもあります。
理由はよくわからないけれど、「やってはいけない。」と、強烈に(無意識に)刷り込まれるような何かがあったとします。それは直接、他者から指示されることもあるだろうし、状況やなりゆきとの関わりから、知らず知らずのうちに、自分が学習してしまうということでもあると思います。このように、ルールをパクリと、味わいもせずに一気に飲み込んでしまう。つまりは、「どうしてやってはいけないと言われることであったのか?」ということを自分の本心や本音を通して、丁寧に感覚せずに言葉だけで学習してしまう。すると、いざ自分の欲求とそれがぶつかったときの扱いに、混乱してしまうといった結果を招きやすくやるのです。
そして、おそらく、次のようなことが起こるかもしれません。
何か違うところでの心的な勝負に躍起になったり、自分の思いを極端に無視してしまう。或いは、自分への不快感を跳ねのけるために相手を極端に無視してしまうような、自身における無意識のうちの対応に振り回されてしまうかもしれません。
自分の欲求に、遠くなる。即ち、心の停滞を生じさせてしまうような「わだかまり」を心に抱えてしまうことになってゆきます。
また、カウンセラーからの見解として、このような状況を抱えたかたは、たいてい、自分における苦しみを他人ごとのように話される傾向があると思います。
また、類は友を呼ぶという諺ではありませんが、未消化なままの「図」は、更に未消化なままになるであろう「図」を引き寄せてしまいやすいのです。そんなことを繰り返していくうちに、素直な感情には輪をかけて鈍感になっていきます。そうして、未消化な「図」の山に埋もれていくうちに、素直な感情や「図」の発生元になっている欲求が、いよいよ手ぶらではわからなくなってしまうのです。
ここで立ち止まって、ちょっと、想像してみてください。
…これは、けっこう苦しいことですよね?
私は、想像しただけで、背中に石を積まされているような心地になりました。
え?!あなたは、何にも感じなかったって?!
うーん、それも、ある意味では怖い答えだと思います。
本当に平気だったのか、或いは鈍感になり過ぎてしまっている兆候であるのか…。
さて、イメージの中だけでも、あなたにちょっと心的に重症になってみていただいたところで、お話を療法へと繋いでゆきましょう。
ゲシュタルト療法では、この遠くなってしまった、欲しているものについて、言葉や体現を使いながら、意識を近づけていくという訓練をしてゆきます。上辺だけではなく、より自身の欲求に近いところにあるものを表現していく練習を行います。
即ち、「図」のもととなっている「欲求」に焦点を当てていく力動のプロセスが、この療法であるとも言い換えられるでしょう。
未解決の欲求(テーマ)を過去のものとするのではなく、「現在」のものとして感覚させていくといったアプローチを行って生きます。それにより、「今、ここにおける気づき」として、内面に新たな生命を吹き込んでいきます。この「生き直し」を行う過程がゲシュタルト療法であり、またの名を統合を目指す過程≠ニ言います。(「統合された人格」への変容を目指したアプローチ)
この療法の目指す、生きている「今」としての自身に気がついていくといった方向性こそ、無視をしてきた自分の心を大切にするという「図」の消化を意味しているのではないでしょうか。
自分らしさ=A大切にしていきたいものです。あなたの心、しまいすぎてはいませんか?
あるがままを生きよう。世間のマニュアルに
喋らされるのではなく、自分の言葉を大切にしていこう。
●ゲシュタルト療法におけるアプローチ(ワーク)
・エンプティ・チェア、夢のワーク、ボディワークなど。
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