|
依存症
薬物,アルコール,買い物,パチンコ,セックス,インターネット,仕事,恋愛
|
|
依存症(アディクション)の問題は、以下のテーマとも関連することがあります。
暴力,精神への暴力:モラルハラスメント アダルトチルドレン うつ,うつ的傾向
依存という言葉を耳にされたこと、ありませんか?
依存と呼ばれる名称を持ったものは、いくつも存在しています。それだけに、ひとつくらいはメディアなどを通して耳にされたという経験をお持ちのかたは少なくないと思います。
そもそも依存≠ニいう言葉そのものは、
他に頼って存在、または生活すること。(大辞泉参照)≠意味します。寄りかかることで、自分自身の足元を成り立たせる形状を表すわけです。心の問題では飛躍して寄りかかるために手放せないもの≠生活の過度な要とし、身近に持ち続けるありかたと捉えます。薬物、アルコール、買い物などはまさに、自分を成り立たせるためのアイテム(道具・対象)です。
ただし、問題は手放せなさ、生活への支障の度合いです。依存症と呼ばれるものは、主に病的レベルで手放せなくなってしまう状態を指すのです。
依存≠求める心の働きそのものは人にとって、平均的な存在です。頭痛があれば、頭痛薬に頼りたくなる。仕事のストレスをお酒によるほろ酔い気分で少しだけ吹っ飛ばそう。刺激を求めて色彩豊かな洋服を眺め、本当に欲しいと思ったものを選び買う。ギャンブルも、程ほどのものはゲーム感覚を刺激した気分転換になる。パートナーとのスキンシップで、気持ちが和らぐ。ネットの世界を通して、情報を楽しむ。
本来、依存の対象となるものは私たちをストレスから解放させるきっかけとなるものでもあるわけです。生活に潤いをもたらしてくれる、大切なものでもあります。
問題は、「何事もほどほどに」の限度を超えてこれらが生活を逆に脅かす時です。
同時に、ややこしい問題も並存しています。依存症≠ナあることを自認することが、当事者にとってはなかなか難しいといった点です。又の名を否認の病気とも言う依存症≠ナは名目上、「普通である。」「まともである。」という見方へのしがみつきが大きくなるのです。
これは、当事者(依存者)における自尊心の低さに由来します。また、自身の抱えている病理性を認めようとしない現実への認識傾向からついた名称です。のん兵衛さんの決まり文句に注目してみましょう。
「私は、酒は好きだけれど、そんな大そうな程はのめりこんでいない。だから、大丈夫、大丈夫!」
「飲んでないよ?」と言いながら、一本線をふらふら歩くお父さんのコントを見たことがありませんか?お笑いでは笑ってしまうけれど、実は深刻な問題でもあったりします。
自分が、病気だなんてあるわけがない。否定のもとに、アイテム(道具・対象)への過度な寄りかかりに成り立つ仮の自尊心・仮の自己承認感情というものがあるのです。自尊心の低さを紛らわし自分自身を維持していこうとする。これが、依存症≠フ正体なのです。
自分を維持するために作り出したファンタジー(仮想現実)が無ければ自分は絶対に生きられないという並々ならぬひとつの思い込みが、当事者を悪く支えます。同時に視野のうちにあるひとつの現実、ファンタジーからのメッセージは大切な情報を含んでいます。回復においては、このうちでしか語れない現実や思いの再認識が大切になります。
この再認識という概念を見逃していれば、ファンタジー(という名の仮想現実)の隅っこで現実症状は着々と重くなっていきます。様々な形で被害が発生していくことも、あることです。夢世界への維持費とした多額の借金、暴力、家庭・社会生活の崩壊と依存症の生み出す問題や犯罪は少なくありません。様々な犯罪さえ、自尊心のバランスを欠いた上で依存対象との分離不安に脅えたが故に発生したという側面があるように思えます。敢えて依存症≠ニ報道されずとも、深刻な問題です。よって、特定の依存対象だけが自尊心を支えるものであってはならないのだと思います。生きるという仕事においては、自分を肯定する心を内側に見つけてゆかねばならないのです。
依存対象となるものが供給されない状態においては、病的なほどの落ち着かなさ(イライラ・不安)に襲われるだけで、供給のあるときは良い人≠ナあるだけ。結果的にご本人(あなた)が苦しむのであれば、そんな辞書(マニュアル)に身を任せてはいけないのです。身を滅ぼすものへの依存にこそ、一度は愛想をつかしてやらなければなりません。問題解決へのヒントは、自尊心への接し方にあるのです。根底に漂う、低い自尊心∞低い自己肯定感≠見直さなければなりません。表立たない病理、即ち依存対象にすがらなければいけなくなる程の不安に駆られてしまう心細さを無視してはならないのです。
逆説的には、「本質的には頼る必要性があるものに自身で頼ることを逃してしまう」ことからの我慢(欲求の抑圧)の存在が考えられます。自分の欲する感情に気付かず頼ることを自分自身にまず許さない(=律している「無意識の自分」の存在)。それにより、仮のものに繰り返し頼らざるを得なくなる。そういった反動が起こってしまうのです。仮のものにしか頼れないというのは、心の空虚感が本質的に埋め合わされないということです。空虚感が、終わらないのです。結果、求めるという行動を繰り返します。ここに、「自己コントロールの障害」が成り立ちます。
けれども、くどいようですがここに自尊心の低さも絡んでいるために
「ギャンブルはやめるべきだ。あなたの自己管理の問題だから止めて、しっかりしてください。しっかりしなさい。」
といったしつけのような対応で何とかなるものとは、一口に言えません。そんなに簡単な仕組みのものでは無いのです。逆の表れとはいえ、「しっかりしなさい。」の姿勢への反応なのですから。(@ 内面へ向けての対応を考えてみましょう。)
また、低い自尊心への同情過度になり、依存性によって発生した借金の肩代わりを繰り返すことで当事者を支えてしまう周囲の存在も見過ごされてはなりません。(A 行動面への洞察を、真ん中に当事者を置いたネットワークから考えてみましょう。)
思い出してみて下さい。依存状態の継続は、対象に頼ることから得られる一時的な快感や安心感が引き金となっています。逆に、依存状態に関連して当事者が困り切る体験が外されてしまうのは、一種の安らぎを意味します。ウンザリすることがなければ、止めるための理由からは遠のいてゆきます。
回復には、依存したくなるものに対して何よりもご本人がウンザリする必要もあるのです。この原理を利用して、嫌酒療法なるものがあります。飲酒することが楽しくないという印象を獲得してゆく道のりです。
家族など周囲が当事者を下手に支えてしまうことは、このウンザリする役割や機会を本人から奪ってしまうことになります。また、それらをついつい奪ってしまう人たちの中にも共依存性といった自尊心に関するアンバランスが潜んでいることも少なくありません。(本来、誰かを支えるというのは良いこととして考えられがちですがもうひとつの側面も見てゆきましょう。)
|
|
このことからも、依存問題の解決には当事者だけではなく、家族や恋人といった当事者を取り巻く存在との関係性を含めた視点での回復を見ていくことが非常に大切です。人間とは、まさに「人の間で機能するもの」であるからです。よって問題を抱えたひとりが発生した場合、当事者だけではなく彼を取り巻くシステム全体からの目線を通して、本質的な歪み(←回復を目指すべくものを見つけるための中心となるもの)に出会っていくことが重要なのです。
当事者自身の問題でもありながら、システム(その人をとりまく環境との繋がり)というネットワークの中から起こるであろう問題性も忘れてはなりません。何故ならば、性格とは生まれ持ったものに限らす、彼を取り巻くものによって影響されている面も小さくは無いのですから。ただし、私が悪いからといって借金を肩代わりすることは得策とは言えません。

大切なことは、↓
ご本人へ……
あなたが無意識のうちに蓋をしてしまいたいと脅えているものから、発生している病的な依存状態≠(見なかったことにするのではなく)在るものとして扱ってあげることです。
しかしながら、反発したくなる気持ちが湧くこともまた、無理のないことです。
私たちは、弱さを抱く動物≠ネのですから。
私たちは、弱さや怯えという形の計測器を使って、身を守るといったことを行ってきた面もあります。
しかしながら、男子(女子)たるものこうあるべきだ∞大人になれば、強くならなければいけない∞社会的に合わせた理想≠ニいったルールへのあなたが持たれている自己認識は、必要以上にあなたの抱える繊細な部分を抑えつける足かせへと変化している可能性があり、あなたを苦しめているかもしれません。その点を無視し続けないことを少しずつでも心がけていくことです。
|
大切なことは、↓
周囲の方へ……
あなたが、あなた以外の人の行動を闇雲に肩代わりする必要はありません。
むしろ、その肩代わりがあなたの大切な人の状況を維持してはいませんか?もし、あなたが自分のことを差し置いた上で、誰かを維持しているのだとしたら、その差し置いた分のツケは下手をすると、あなたもしくはあなたの大切な人に倍になって返ってきているかもしれません。そこをきちんと見ていらっしゃいますか?気安い同情から高価で物理的(数字で計れるようなもの)・物質的なものを代償とするだけでは、決してご本人は楽になれません。
むしろ、物理的・物質的なものこそ安くして、気安い同情を深い共感へと変えてみませんか?
もちろん、あなたがあなたへの肯定感のための代償としてそれを行っているのであれば、何故、償わなければいけないのか?あなたの心に聴いてあげることも忘れずに。
あなたが持ち合わせている、大切にしたいと思っている優しさ≠竍思いやり≠フ使い方をほんの少し変えてあげるだけでいいのです。
|
まずは、自己の症状に対する大きな否認≠フレベルを緩めてあげましょう。その第一歩として、心の専門家を訪ねてみましょう。最初にあなたがあなたの依存に対して表してあげる言葉は、「自分の症状は、どうも自分の気持ちの中の空虚感を埋め合わせするために行っているような感じも否定できない。」といったほんの小さな承認でも構いません。(否認への否認という名の承認)大切なのは、あなたがあなたの中に本来持ち合わせている空虚感や脅えの感情を否認と言う形で無視(ネグレクト)しないということです。
依存者にとって大切になってくるのは、過度な依存や自分を維持するための強さへのこだわりが必要なくなるくらいの安心感を自分の内側に見つけていくことです。
この安心感とは、単に動じない≠ニいうことと直結させた、
「平気!平気!私(俺)って、意外と打たれ強いからあ〜♪」
なんて早口で語れてしまうようなものとは、少し違うものであるかもしれません。もっと、じっくりと実感がこもって表現できる、ゆるやかなスピードであなたの感覚を受け入れてあげられる波のようなものだと私は思います。言葉でいかに言えるかではなくて、言葉や行動が内面の発するものにいかに伴っているか?です。
お湯を入れて3分で空腹を満たしてくれるカップラーメンではなく、時間と手間暇をかけた作業から生み出される手打ちうどんのようにじっくりと味わえる感覚のようなものを大切にしていきたいものです。(え?カップラーメンも製造工程から見れば、手が込んでいるって?それはそれで、御もっともです^-^;)大切なのは、急いで行動だけを改善することではありません。充分に時間をかけて、心のたがとなっているものの正体を見つけ、外していくことです。
具体的な回復率については、この文章を書いた時点では、わかりません。申し訳ありませんm(__)m(時間を見つけて、記載してみたいと思っております。)しかしながら、回復を得たかたのお話は、何度も耳にしています。当カウンセリングルームのメールカウンセリングおいては、行動療法を受ける一歩手前になるまでの心の整理を無事にクリアなさったかたが徐々に増えつつある近況です。(実際、行動療法や自助グループに出会うまでこそ、越えられない一山とされているかたも少なくはありません。メールカウンセリングの役割・可能性・限界を踏まえ、行動療法が必要なものに関しましては、このような橋渡しの役割を私は大切に行っていきたいとも思っています。)
ただし、厳しい道を辿ることになると思います。後戻りしたくなる誘惑は、当然のように生じるでしょう。ですから、後戻りに協力的な依存症仲間ではなく、「依存症からの回復を目指す仲間やスタッフ」という協力者をしっかり得ていくことだと思います。
● 心の病院………………………
病院には、治療と投薬の専門家である医師がいます。
※行動療法を行っている病院が必要となってきます。
また、回復へ向かうことは心のエネルギーが要る道のりでもありますので、必要に応じて薬を貰いましょう。自分の意思だけで頑張ることは、非常に困難です。
|
● 依存症専門のカウンセリングを受ける……
自己洞察の時間を与える専門家であるカウンセラーと、
対話をして自己認識に対する心の整理を行っていきましょう。※当事者のかたは、行動療法を行っているところを探してください。
当カウンセリングルームへのご依頼があった場合、どちらかというと助走のようなカウンセリングを行わせていただき、行動療法へ向けてのお話をさせていただくといった対応をさせていただくのではないかと思います。
また、当事者ではなく周囲のかたへのカウンセリングにつきましては、一度、ご連絡をくださいませ。周囲の者としての対応や自身について、ゆっくりと心を整理してゆきましょう。こういったことが、結果、あなたが関係している当事者への援助に繋がることがあります。
よろしければ、一度、お問合せください。
|
●自助グループ……………………
依存、依存症という同じテーマを抱えたかたや、その周囲のかたが自らの経験を分かち合うことによって、孤独感を和らげたり、或いは仲間を通して、自己認識を深めるための場です。自助グループの存在は、なかなか大切なものになってくるのではないかと思います。医師やカウンセラーなどの専門家の存在だけでは、とうてい自身の孤独感を和らげるものにはならない面もあるのではないかと私は考えます。それは、どうしても、自分と同じ悩みを持っているという視点とは違うところからの援助であるという限界も否めないからです。違う立場からの援助も大切であるように、同時にまた、同じ悩みを持ったひとたちの存在もまた、あなたの回復を支えてくれることになるでしょう(*^^*)
|
|