カウンセリングルーム風音
こちらにある文章は、日々、推敲・校正が繰り返されてゆきますことをご了承ください。
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メールカウンセリング
メールを綴り、悩みと向き合うことのゆくえ
ネットカウンセリングと問題解決・成長への扉
(自己模索‐瞑想‐集中)
人は、漠然とした不安や悩みを抱えている時に相談相手を必要とすることがあります。
こうした時に活用されるものの一つがカウンセリングですが、状況によっては、面談カウンセリングへの往来が困難なこともあります。多忙で時間が作れない。気持ちの問題も含め外出が困難であるといったこと等から、ついつい悩んでいることへの自覚を保留にしてしまう…。こうしたことへの緩和策、打開策に位置するものが、ネットカウンセリングです。
さて、ネットカウンセリングとは言葉の通り、インターネットを活用したカウンセリングのことです。主に、メールを使用したもの、インターネット電話(テレビ電話含)を利用したもの、チャットを活用したカウンセリングの総称です。
当ルームでは、主にメールカウンセリングを扱っていますが、それは、人或はその人の抱える状況により、
「自身についての文章を綴る」という動作そのものがカウンセリングになることがあるため
です。
ところで、「カウンセリングとは、話を聴いてもらうだけのことをするものだ」という誤解があります。カウンセリングを実際に受けてみる前、カウンセリングを学ぶ前の私も、そう思っていました。
しかしながら、カウンセリングの醍醐味とは、「いかにして純粋な自己模索の時間を得るか?」ということにあり、即ち、それは、
自身に集中する時間の質を得ること
を意味します。
このようなことに価値が置かれるのは、「
問題を抱える人々の多くは、往々にして
上手く
悩み切れていない、故に、問題を我知らず、保持してしまう形で適応しているのではないか?」という視点にも由来しています。
悩むということの本質は、
自分の触れたくない領域にさえ、自らで、勇気を持って近づいてゆくことでもあります
。悩み切る動作を回避している間のもやもやとは、似ているようでだいぶ違います。
周りに影響を与える程に人が変わってゆく、内面が成熟してゆくというのはとても厳密で大きいものであり、それこそ根気の要る厚みのある作業が必要な過程です。更に、その先は、
モラトリアム(悩み切る前の猶予の時間)を大切に生きながらにして、モラトリアムにおける、自らの「言い訳と遠吠え」を棄てる覚悟を踏めた者にしか得られない。
そんな厳しい道でもあり、同時に、厳しさもあるからこそ味わえる、奥深い優しさや温かみというものがあるのだろうと、(私は)思います。
ですから、揺ぎ無い問題解決への導きを促すためにも、場合によっては、
悩める能力
を否定し切らないことさえ大切になってくるのです。
繰り返します。カウンセリングでは、『(例外もたくさんありますが)悩みごとの凍結・停滞には、悩むという能力を発揮し切れていないところに原因があるのではないか?』と、自らに問うてゆく視点があります。
「あなたは、悩まなくていいんだよ」と相手を持ち上げ続けていれば、確かにその場の気分を楽にさせることは出来ます。一方で、この言葉でしか相手を見ないというのは、言い換えれば、
「例え相手が悩むことがあったとしてもしっかりやってゆけるという、自発性や自律(自立)性」を踏みにじる動作でもあることを忘れてはなりません。優しさと過保護には、紙一重の部分があるのです
。
心理カウンセリングにおけるクライエントさんには、カウンセリング場面において、
話題の主導権(自発性)をカウンセラーに奪われてしまわれないための、細心の注意の払われる権利と必要性があります。
カウンセラーがクライエントさんに対する安易なアドバイスを避けるのは、軽率な(もしくは、日常レベルでの)アドバイスが、クライエントさんよりもカウンセラー自身に由来しやすい性質をよく知っているためです。あなたも一度や二度は、出会ったことがありませんか?悩みを聞いてくれるおせっかいな人は、あなたの悩みと苦しみに便乗して、結局は、自分のことばかりを話し続けていたのだと、後になって気がついたという、あの瞬間のことです。
心理カウンセリングにおけるカウンセラーとはそうした物事の裏表を学び、訓練を受けてきた存在でもあります。カウンセラーとは、ただ話を聞くための役割にあらず、厳密には、瞑想(宗教的な意味合いではなく、自身を問う動作としての)の姿勢を教授し、その動作を獲得してゆくタイミングをクライエントさんに導く存在なのです。
ですから、
カウンセラーはクライエントさんに、いきなり問題解決を与えるのではなく、問題解決の役割を奪うのでもなく、クライエントさんが自分で問題に立ち向かってゆくための、悩み方、「悩むという能力の発揮」の仕方を教えていく存在として、知恵を使い、クライエント一人一人における、クライエントにとって必要となる自らの役割を選択してゆきます。
そうはいっても……、
「これ以上、悩んでみてどうなる?」
この文章を読まれているかたの内には、このように思われるかたのあることも自然なことです。
しかしながら、モラトリアムのもやもやがが邪魔をして瞑想に至れず、結果的に「真なる悩むという動作」に至りきれない。故に、悩む悩むとは言いますが、「純粋な問題解決への自己模索が実質的には未体験な状態である」という段階に住まう人のあることは、充分に考えられることです。
「ただ頭で悩んでいるだけの自分に振り回されて苦しい」という悩みも、この世にはたくさんあると思います。「悩むことをスルーすることで切り抜ける代わりに、温もりや優しさへの真なる接点を見失う」といった現実についても、同様です(^^)
このことはもちろん、あなたが劣っているという意味とも違います。スルー(回避)することばかりに優れてしまっても、同時に、それは自らを蝕んでいるという現実について語っているのです。
現代人は、物質的な生活を豊かにし、感情を含めて、機能をフルに使わなくなった代わりに、心身の使い方の要を見失ったのではないか?という、先人の言葉への共感に基づく話題です。
人に能力が無いというよりは、能力の使い方がわからなくなっている。これが「(器質的なものは除外した)現代における心の病」における本質のひとつなのかもしれません。
そして、『問題解決への扉というものは、他者が悩みを肩代わりすることではなく、他ならぬその人自身の営みの中に、どっしりと置かれているのではないか?』といった、それこそ、大きな樹の下でしっかりと張られた根のような視点に、私は辿り着くのです。
さて、ネットカウンセリング、中でもメールカウンセリングにおいては、こうした純粋な一連の時間を「カウンセリングという空間を敢えて設定し、そこで自身についての文章を綴ること」で構築してゆきます。
「自身についての文章を綴ること」が、カウンセリングになる。即ち、「自他を混同しない相手を鏡とし、その間合いにおいて、瞑想を伴った文章による自分語りを根拠よく続けてゆく」という営みには、新しい示唆を自らに与えるための、重要な役割があるのです。
(何となくでも、感じ取っていただけておりますでしょうか?)
また、「自身についての文章を綴る」といった動作への集中は、瞑想に近い(心の)姿勢や空間を人に与えます。
故に、「メールに綴る・誰かに語る・模索する」という動作が、必要に応じて、「より自らに必要な選択を自らが、獲得する方向」を理屈では無い部分において、自らが自らに促すことへと繋がるのでしょう。
わからないことがあるとよく、「自分は馬鹿だから」と決め付けて蚊帳の外に出てしまうかたがあります。そうしたかたには、次のように申し上げたいと思います。
もちろん、すぐに理解出来ずとも良いのです。
徐々に分かってゆくことの積み重ねが、「理解する」ということであるのですから。「頭」だけで分かることと「全体」で理解することでは、質が全く異なるのですから。
大切なのは、「己がありたいのは真に理解を紡ぐ者であるのか、それとも裸の王様であるのか?」この点をよく見極め、
時に、「頭」だけの理解に逃げて、格好ばかりつけているといった我が身のあり方を問い直し、自分の中の未熟さに立ち向かう勇気を出すことではないかと思います。
実際によりよくなりたいという願いや状況を改善したいという願いのあった上で、それら問答の様々を経験とし、更には、それらが己の血肉となるまで自身の混沌(カオス)から問い続けてゆくこと。
何かを回避するための理由に馬鹿という言葉を使うよりも、「己における馬鹿とは、何者であるのか?」と根気よく見定めてやろうという使い方のほうが、人を育てるという、馬鹿という意味の本質が持つ本来の役割を果たしてくれるのではないかと、私は思います。
問題は、
この点を実行するか否か?
にあるように私は感じています。(このタイミングでの使用に限り、この箇所は、敢えて二者択一論での強調としました。)
外側にばかり理由を求めていた時(外面化といいます)には見えてこなかった何かが、この動作によって見えてくる。見えるものを追い続ける時代の真横には、姿が見えていないだけで価値のあるものもあるのです。
あなた様のお心にも、何かが届きますように‥。
澄美
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